外務省・新着情報

令和4年9月7日

 かつて日本とモンゴルとは、近くて遠い国でした。東西両陣営に分かれていた両国は、1972年に外交関係を樹立した後、冷戦中の様々な制限下で交流の道を歩みました。
 大きな転機は、1990年に訪れます。モンゴルはこの年、民主化、市場経済化に舵を切りました。日本は、このモンゴルの勇気ある挑戦を世界に先駆けて支援し、以来、両国の関係は飛躍的に発展し、人の往来も年々活発化していきました。そして、2022年、両国は外交関係樹立50周年の慶節を迎えました。現在までに、両国がどれほど近い国になったのか、特にこれまでの両国国民の交流に焦点を当てて紐解いてみましょう。

1 外交関係樹立直後の人的交流

 1972年の外交関係樹立当初、体制の違いもあり様々な制限はありましたが、それでも、少しずつ人と人との交流は広がっていきました。
 1974年、東京外国語大学に、モンゴルからの初の客員教授としてD.トゥムルトゴー教授が着任されました。また、モンゴルでも1975年にモンゴル国立大学に日本語コースが開設され、モンゴルにおける日本語教育が、本格的に行われるようになりました。さらに、日本は文化交流協定(1974年締結)に基づき1976年にモンゴルから最初の国費留学生を受け入れ、同年、大阪外国語大学に、研究生として物理学者のチンバト氏が派遣されました。こうした言わば先駆者たちによる将来への架け橋となる地道な取組があったことを忘れてはなりません。例えば、トゥムルトゴー先生は、客員教授として日本におけるモンゴル語教育に携わった後、現代モンゴル語-日本語辞書を編纂しました。その後もトゥムルトゴー先生は、国際モンゴル学会での活動等を通じて、日本を含む世界各国とモンゴルとの学術交流に多大な貢献をされています。
 当時のモンゴルにおける対日理解度を示す興味深い例を紹介します。1976年、当時モンゴル外務省に務めていたS.デムベレル氏は、いつかモンゴルやその人々にとって日本語が必要とされる時がやってくると信じ、日本への留学を志願し、外務大臣や人民革命党(当時)の中枢部の許可まで得て、1977年に大阪外国語大学に研究留学生として留学することになりました。ところが、デムベレル氏が、日本への留学が決まったことを友人や知人に伝えると、「大気汚染がひどくて、酸素マスクをつけて暮らす都市もあるらしいぞ。」、「高層建築で暮らしていて、地面に降りたこともない人がいるそうだよ。」、「日本人は、外国人は全員スパイだと疑っているらしい。」、「日本人は非常に潔癖で、一日に何度も風呂に入るそうだ。」、「日本人は白米と魚だけ食べているらしい。」などと言われたそうです。当時モンゴルにおいて、日本がいかに遠い国であったかが感じられます。
 その後、デムベレル氏は、留学から帰国後、モンゴル外務省職員、そして在モンゴル日本大使館の現地職員としても活躍し、両国関係の橋渡し役を務められました。定年退職後は、モンゴル日本関係促進協会事務局長として二国間草の根交流に取り組み、兵庫県豊岡市とモンゴルのバヤンホンゴル県との交流にも尽力されているほか、言語博士として、日本語-モンゴル語辞典の書籍版、さらにはスマートフォンアプリ版も編纂するなど、語学教育の推進にも貢献されています。

2 高い日本留学・日本語学習熱

 1990年にモンゴルは民主化し、モンゴルから日本への留学生の規模は次第に拡大しました。現在、モンゴルから日本に留学中の留学生数は2,648人です(2021年6月末現在)。モンゴルの全人口は340万人なので、約1,280人に1人のモンゴル人が日本に留学していることになり、米国留学中の日本人の割合(約10,650人に1人。日米教育委員会によると米国留学中の日本人の総数は11,785人(2020-21年))よりも8倍以上多い計算になります。また、出身国・地域別で見た日本への留学生数の順位において、モンゴルは第10位です(日本学生支援機構調べ。国費・私費いずれも含む高等教育機関在籍数。)。
 また、モンゴルにおける日本語学習者の総数は11,755人に上り(2018年現在、国際交流基金調べ)、前回調査の8,159名(2012年)から約44%も増加しています。この数字からも、モンゴルにおける日本語学習への関心の高さが窺えます。
 このように、モンゴルでの日本留学経験者人口が年々増えていく中、1995年には、モンゴルにおいて日本留学経験者による「モンゴル帰国留学生のJUGAMO会」(JUGAMO:Japanese University Graduate Association of Mongolia)が設立されました。現在もJUGAMOでは、約2,200人にも及ぶ日本留学OB・OGの有志が、モンゴルの産官学の様々な分野で活躍する傍ら、日本への留学促進、帰国留学生の就職支援などの活動に精力的に参加しています。

3 留学生が創ったモンゴルの学校

(写真1)新モンゴル小中高一貫学校の全体像の写真 新モンゴル小中高一貫学校(同校ホームページ)

 日本留学OB・OGの中には、母国モンゴルに日本式教育を取り入れた学校を自ら創った人物がいます。2000年、日本留学から帰国したガルバドラフ氏は、日本語教育に留まらず日本式の教育を実践する学校を創ることを志し、同氏の勤勉さと高い志に共感した日本人支持者の支援を受け、「新モンゴル高校」を設立しました。同校はその後、中学校、そして小学校を開校し、2014年には後述する高等専門学校(高専)及び工科大学をも加えた総合的な学校「新モンゴル学園」へと発展し、現在では入学希望者が大変多い、人気の学校となっています。また、2018年9月には、元横綱日馬富士氏とガルバドラフ新モンゴル学園理事長の協力のもと、新たに「新モンゴル日馬富士学園」が開校されました。
 同校は、小学部(1~5年生)、中学部(6~9年生)、高校部(10~12年生)の教育カリキュラムを擁しており、いずれも日本式教育を取り入れています。同校では2021年、第1期生の卒業式を行いました。

(写真2)モンゴル工業技術大学付属高専の全体像の写真 モンゴル工業技術大学付属高専(国立高等専門学校機構ホームページ)

 また、モンゴルには日本発祥の高専(高等専門学校)が存在します。日本のものづくり技術から学び、いつか母国で日本のようなものづくりを実現したいという意欲や志を持つモンゴル人青年は沢山います。彼らの、母国モンゴルに日本式高専を創設し工業立国へと発展させたいとの思いは強く、2009年、モンゴルの日本高専留学生・卒業生が組織する「コウセンクラブ」のメンバーや、日本の企業や高専教員のOB・OG達が立ち上がり、一般社団法人「モンゴルに日本式高専を創る支援の会」が設立されました。その後、同団体の地道な取組により、2014年、モンゴル工業技術大学付属高専、モンゴル科学技術大学付属高専、そして前述の新モンゴル高専と、3校の高専が設立されました。卒業生の中には、日本の企業に就職した人もいます。
 ちなみに、世界で日本式の高専が設立されたのはモンゴルが第1号で、現在はモンゴルのほか、タイにも2校、ベトナムにも3校の高専が設立されています。

4 モンゴル産カシミヤ製品の生産力を高めた人材の育成

 日本での留学や研修で研鑽を積んだ人材が発展に寄与した産業があります。それは、モンゴルのカシミヤ産業です。この産業は、遡ること1977年、経済協力協定の締結により、モンゴルへの初のODA案件として、ゴビ・カシミヤ工場の建設を無償で支援したことから本格始動します。この支援により1981年に同工場は創業しましたが、生産技術も同時に高めるため、研修員の日本への受入れ等の人材育成をはじめとする技術協力を継続的に行ってきました。また、国費外国人留学制度でも、同工場に必要な繊維の専門家を養成しました。
 ゴビ・カシミヤ工場は、2007年に民営化してゴビ社となりましたが、民営化の10年後には、同社で生産されるカシミヤ製品はモンゴル国内市場の約70%、外国輸出の約60%を占めるなど、モンゴルのカシミヤ産業における象徴的存在となりました。今やモンゴルのカシミヤ製品は、日本人を含む多くの観光客がモンゴルを訪れた際に購入するなど、モンゴル土産としても人気となりました。このように、モンゴル産カシミヤ製品の生産力と世界的評価を高める基盤作りに日本が貢献したことは、両国史の一頁に刻まれています。

5 1,000人のエンジニア育成

(写真3)認定証を持って記念写真に収まる留学資格者たち 工学系人材育成事業での留学資格認定証授与式(在モンゴル大使館ホームページ)

 モンゴルでは、産業人材育成のニーズが引き続き高まりを見せています。こうした自国の技術力を磨いて自立的に成長したいというニーズに応えるべく、日本政府は2014年以降、日本への留学を通じて、モンゴルが必要とする産業人材を育成し、モンゴルの工学系高等教育機関の機能を強化する有償資金協力「工学系高等教育支援計画」を実施しています。2024年までに1,000人を日本に派遣することを目標とし、2021年までに計776人が日本に留学しており、2022年にも45人が留学予定です。
 日本留学経験のある学生は、卒業後モンゴルの各界で活躍しています。

6 モンゴル人力士の活躍が近づけた両国の距離感

 日本とモンゴルの人と人の交流や相互理解の深化に大きな影響を与えた存在として、モンゴル人大相撲力士の存在は忘れてはなりません。
 日本の国技である大相撲において初のモンゴル人力士が誕生したのは、1992年のことでしたが、同年に6人のモンゴル人力士が初土俵入りして以来、角界における多数のモンゴル出身力士の30年間にわたる活躍、そしてモンゴルでもテレビ中継が流れて大相撲が大ブームとなったことにより、両国でお互いの国名が大変身近なものになりました。モンゴル人力士は、引退後も、親方となって引き続き日本の角界で、或いは母国モンゴルの教育分野等、様々な分野で活躍しています。
 最近では、2021年7月、照ノ富士関が横綱に昇進し、朝青龍関、白鵬関、日馬富士関、鶴竜関に続く、5人目のモンゴル出身横綱が誕生しました。2022年6月現在、モンゴル出身力士は総勢19名で、このうち幕内は6名です。

 【コラム】
 日本食の普及 近年、モンゴルでも日本食レストランが増えており、定食屋、寿司屋などもモンゴル人に親しまれるようになりました。また、2022年1月には、日本の牛丼チェーン店のモンゴル1号店がオープンし、現地ならではのマトン(羊肉)丼が提供され、モンゴル人からも好評を得ています。

7 日モンゴル協力の新たな象徴としての「チンギス・ハーン国際空港」

(写真4)新空港「チンギス・ハーン国際空港」

 人と人の交流、相互理解が深まる中、2021年7月には、モンゴルと世界を空で結ぶ新たな国際空港が、開港しました。新空港「チンギス・ハーン国際空港」は、日本の円借款を活用して建設され、また、運営には日本企業連合が参画しており、日本・モンゴル間協力の新たな象徴となっています。また、この新空港は、空を通じた地域の連結性を高める点で「自由で開かれたインド太平洋」にも資するプロジェクトです。新空港を通じて、日本とモンゴルの人の交流が一層拡大することが期待されます。

 【コラム】
 フレルスフ大統領の28年前の「尋ね人」 実は、現職の国家元首であるフレルスフ大統領も、日本人との深いつながりを持つ人物です。フレルスフ大統領は1994年、26歳の時にJICAの研修プログラムで訪日しました。2019年10月、即位の礼に参列したフレルスフ首相(当時)は、その研修時に知り合ったホストファミリーを探してほしい、その家の幼い少女に話した「大きくなったらモンゴルに招待するからね」との約束を果たしたい、と同行していた日本外務省職員に依頼しました。滞在した街の地名もホストファミリーの人名も分からず、アルバムの数枚の写真のみが手がかりという中、紆余曲折を経て、ホストファミリーを探し当てることができました。そして、大統領就任後の2022年7月、遂にホストファミリーのモンゴル招待は実現しました。

8 日本・モンゴル学生フォーラム

(写真5)「日本・モンゴル学生フォーラム」オンライン学習会の表紙

 このように、日本とモンゴルは、様々なかたちで行われてきた双方の先人達の取組が積み重なり、本年外交関係樹立50周年を迎えました。
 今後は、これまでに先人が築き上げてきた両国の友好親善関係を維持させつつ、更に発展させるためにも、人と人の、とりわけ次の50年を担う若者同士の更なるつながりを通じた相互理解が重要です。両国は、2022年に迎えた外交関係樹立50周年を、「青少年交流推進年」とし、若い世代の皆さんとともに盛大に祝賀することとしています。
 外務省は、日本とモンゴルの次代を担う学生が、共に学び、交流しながら相互理解を深めるとともに、共通の課題について議論する行事として「日本・モンゴル学生フォーラム」を開催しています。この行事では、7月23日以降3回にわたるオンライン学習会と9月23~25日の合宿で構成されるプログラムを通じて、参加学生同士が交流し、相互理解を深め、特に合宿での議論を通じて学生達自らが、両国、地域、そして世界の未来のためにできることを考え、行動につなげていくものです。このような取組を今後も続けていきたいと考えます。

 【コラム】
 日本・モンゴル50周年記念切手の発行 日本では6月15日、日本郵便社から、モンゴルを象徴する風景や文化、いきものなどを題材とした記念切手を発行しました。また、モンゴルでも6月19日、モンゴル郵便社から、両国の文字の文化をテーマとした記念切手を発行しました。今後、この記念切手の貼付された手紙や封筒などを通じて、人と人のあたたかい交流が育まれることを願ってやみません。

(写真6)両国の文字の文化をテーマとした記念切手 モンゴル側記念切手(モンゴル郵便社提供)
(写真7)モンゴルを象徴する風景や文化、いきものなどを題材とした記念切手 日本側記念切手(日本郵便社ホームページより)

 次の50年で、日本とモンゴルの交流は、どのように発展していくでしょうか。新しい時代に、両国の青少年をはじめとする人々が益々関係を深め、新たな物語を紡いでいくことを祈念します。


発信元サイトへ